さらさら

さらっと、さらさらと。サラリーマンがサッカーとかゴルフとかを語ります。

「◯◯ジャパン」的思考、そろそろ終わりにならないかな。

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 木曜日に行われたW杯ロシア大会のアジア2次予選は、日本代表がアフガニスタン代表を5-0で退け、最終予選進出を決めました。

個人的には、W杯予選はとにかく勝つこと、突破することがすべてだと考えているので、得点が多いか少ないかは別として、勝てて良かったと思います。

しかし魔物の棲む大会であることを考慮しても、相手は超格下のアフガニスタンです。FIFAランキングは151位(日本は56位)、そもそも国自体が大変な状況のチームです。彼らを圧倒したからといって、どれだけのことが証明されたでしょう。上位国相手にこの日のサッカーが通用するかどうかは、まったくわかりません。この試合をもって「ハリル・ジャパンの未来は明るい!」的な論調には反対です。

 

代表監督は、あくまで「チョイスを行う人」

 

 難癖をつけさせてもらうと、私自身はずいぶん前から、監督名をもって、「◯◯ジャパン」という言い方が嫌なんです。別にそう呼ぶのはいいのですが、なんというか言葉のニュアンスとして、日本のマスメディアの使い方は“監督が代表チームを強くしてくれる”という期待を感じてしまうんです。当然強くしてほしいのは山々ですが、それは無茶な話に思えてなりません。

そもそもサッカーの代表チームの監督というのは、世界中のクラブチームに散らばっている選手を、ほんの短期間チョイスして束ねるのが仕事であり、その国の選手やサッカー自体のレベルを底上げする存在ではないと思うからです。あくまでも一瞬の「チョイス役」でしかないと。

そりゃあ、ジーコオシムさんが監督に就任するとなれば、期待するのが人情というものです。私も期待しました。

しかし、ここで言いたいのは期待の仕方の問題です。選手を強くしてくれることへの期待ではなく、あくまでも選手と戦術のチョイスが優れているかどうかに対しての期待、それしかできないだろうと思うのです。普段選手を指導する立場にない代表監督は、クラブがつくりあげてくれた状態の選手をチョイスし、組み合わせることしかできず、自分で選手をつくりあげるには時間が足りな過ぎます。

だからジーコのチョイスがあり、オシムのチョイスがあり、ハリルホジッチのチョイスがある。監督が変わったからといって全体の持ち駒が変わるわけではなく、選ぶ人間が変わるだけのことです。つまりチョイスの違いが表れるだけ。

だから極端な話、誰が監督になっても代表チームが強くなることはない。

それくらいに思っておいた方がいいというのが個人的な考えです。

もちろん、チョイスの上手い下手で試合結果は変わり得るので、極力上手い人にやっていただきたい。しかし、どんなにチョイスの上手い、チームのポテンシャル以上の成績を出してくれる監督を招いたとしても、チームの「格」があがることはありません。

たとえば明日からジョゼ・モウリーニョアフガニスタンの監督になったとして、そうすれば代表チームは急に強くなるでしょうか。どうでしょう。はっきり言って、日本代表から見れば怖くもなんともないはずです。モウリーニョが選手をチョイスし、戦術を与えれば、多少のレベルアップはあるかもしれない。しかし、急に世界的ストライカーや一流ゲームメーカーが育つわけではありません。モウリーニョだろうと、グアルディオラだろうと、いないものはいない。いない選手を選ぶことはできないのです。

 

「代表チームは日本のもの」という自立

 

 日本サッカー界が望むものは、事故でW杯に優勝することではないはずです。日本代表が常時にFIFAランキングのトップ20に入るくらいの実力を持ち、かつW杯に優勝したいはずです。

とかく代表チームの試合、代表監督ばかりが注目され、今回のような勝ち方をすると、大メディアでは問題提起がなされずに賞賛ばかりで終わってしまう。 近年はこうしたお決まりパターン的論評のループが起こっているように見えます。

Jリーグ創設以降の目覚ましい日本サッカーの発展は素晴らしいものです。しかし今後、今のレベルで長い停滞期に突入しないために必要なこと、それが大マスコミによる日々のもう少し突っ込んだ問題提起ではないでしょうか。

監督が変わるたびに「◯◯ジャパン」として強化していただく、勉強させていただくのではなく、そろそろ代表監督とは対等な立場にならないとだめでしょう。「ウチの代表チームの監督をやらせるからには下手打つなよ」というくらいの。それは、地力はあくまでファンを含めた自分たちの責任で、監督はチョイス役に過ぎないという自立した意識です。

こうした意識を持たすに、4年ごとに「◯◯ジャパンはどんなチームになるんだろう?」と期待だけしていては、いつまでたっても日本サッカーの芯ができないと思います。代表監督が誰になろうと揺るがない根っこの部分。日本サッカーの根っこ、スタイルを築く必要があると思うのです。

 

見えつつある基盤 

 

 では、代表チームのサッカーのスタイルとは何か。なにも体系化された理論が必要だとは思いません。それはその国のサッカーのDNAに組み込まれて脈々と次世代に受け継がれていく共通認識のようなものだと思います。理論以前に、子供の頃から目で見て刷り込まれた肌感覚です。つまりスタイルとは、日本人のサッカーに対する肌感覚がどんなものかということが大きく影響します。

野球を例にしてみましょう。野茂英雄さんが扉を開いて以降20年、トッププレーヤーの多くがメジャーに挑戦するようになりました。そして、その歴史の中で見えてきた傾向があります。それは、投手はメジャーでも比較的活躍するケースが多く、野手はかなり厳しいということ。イチロー選手と松井秀喜さん以外に、継続的にトップレベルの活躍をした野手はいません。メジャートップレベルは20年でたった二人。特に内野手に至っては、レギュラーを獲得することすら難しいと証明されました。

翻って投手の活躍は華やかです。野茂さんから田中投手に至るまで、日本が世界有数の投手輩出国であることが証明されたと言えます。

これが意外なことかというと、球界の人もファンも、実はけっこうな割合で予想していた通りの結果なのではないでしょうか。正確なコントロールの投手と、走れるヒットマン、隙のない守備と戦術徹底。スモール・ベースボールという言葉もあったように、「これが自分たちの強みだ」と言えるものを、日本野球はファンまで含めてすでにしっかり持っている。だからそれさえできれば相手が誰だろうと負けることはない、そんな肌感覚が文化として定着しているのではないかと思います。その肌感覚こそが日本野球のスタイルにつながっているし、次の優秀な選手を生み出す基盤となっているのではないでしょうか。

話をサッカーに戻すと、野球で見えてきた「日本が国際的に活躍できる選手を生み出しやすいポジションの傾向」がサッカーにも表れ始めています。 

象徴的な中田英寿さんのペルージャ(イタリア/セリエA)移籍から18年。 野球と同じようにトッププレーヤーたちの多くが欧州へ移籍するのが当たり前になりました。しかしその壁は高く、トップレベルで活躍できた選手はかなり限られました。

そしてこの歴史の中で、同じく見えてきた傾向が、ミッドフィルダーサイドバックの選手が比較的高いレベルで活躍できているということです。

高い技術と運動量、献身的な守備と、戦術への忠実度。サッカーにも、日本が世界レベルの選手を輩出しやすいポジションが確実に存在していると思います。

であるならば、日本のサッカーのスタイルというものは、高い技術と豊富な運動量を持った優秀なミッドフィルダーサイドバックを基盤に築き上げていくべきでしょう。点取り屋がいないという嘆きに議論を帰結すべきではない。お経のように「決定力不足」という言葉が繰り返されますが、短絡的です。 近年の岡崎選手の実績など、一昔前なら「世界的ストライカー」とか言われて大騒ぎされるレベルだと思います。日本にとっては身分相応以上のストライカーがいるんです。レバンドフスキイブラヒモビッチは、どこの国にとっても突然変異的な授かりものなんですから。

良ければ相手のレベルに関わらず褒める、悪ければ決定力不足を嘆くではなく、本来日本が目指すものは何か、それに対してどれだけできていたかという視点が大事でしょう。日本のスタイルという具体的な共通認識ができていれば、より冷静で建設的な「あーだこーだ」ができるようになっていくのではないかと。

 

グランドデザインが浸透した組織は強い。

 

 自分たちの頭で考え、グランドデザインを描き、そこを軸に評価と対策を練っていく。自分の仕事では出来そうもありませんが、日本サッカーにはそれができるポテンシャルがあると思います。なぜなら、Jリーグ百年構想しかり、JFA2005年宣言しかり、他のスポーツよりもグランドデザインを描ける世界だと思うからです。

たとえ◯◯ジャパンという呼び方は無くならなくても、 ファンまで含めて自分の頭で日本のサッカーを考えることができるようになったとき、必然的に日本人の代表監督が続く時代になっていくのではないかと思います。

【了】